国技 館 寿司。 鮨おばな

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国技 館 寿司

(25年)から(59年)にかけて存在した国技館については「」を、その他の国技館については「」をご覧ください。 6m 竣工 (昭和59年) 総工費 150億円 所在地 〒130-0015 1丁目3番28号 両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、日本の一丁目にあるの興行のための施設。 が所有している。 、などの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、のライブ会場としても使用される。 クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。 なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いるであり 、同協会による正式な呼称は「 国技館」である。 では、で 國技館と表記している。 旧国技館 [ ] (天保4年)からで相撲興行が催されていたことから、(明治42年)に 旧国技館は、同境内に建設された。 明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興業が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。 その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。 屋根は金堂を真似た。 約13,000人収容できた。 開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。 また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、 大鉄傘という愛称で呼ばれていた。 その後、がから旧国技館()を買収。 (昭和33年)から(昭和57年)までの間は、 日本大学講堂だった()。 回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。 沿革 [ ] 初代国技館 [ ] 初代国技館 先代は現在の国技館とは異なり、沿いのの境内にあった。 (明治39年)6月着工、3年後の(明治42年)5月に竣工し、に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは 小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。 しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。 6月場所は本来は5月18日より興業との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。 設計はや、の設計者として知られるとその教え子で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。 工事費用は27万円。 約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。 実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。 建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。 天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。 命名 [ ] こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務めるが提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。 ところが大の相撲好きだった作家のが開館式の式次第のために起草した披露文の中に「は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・のはこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。 この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。 これを受けて6月1日付の『』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。 午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。 翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここにからへと変貌を遂げたのである。 なお命名が最後までずれ込んだため当初のなどにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。 二度の再建 [ ] (大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。 損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。 使用不能の間は境内に仮小屋を建てて興行を行なった。 新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、(7年)7月に・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。 (大正9年)に再建興行したが、(大正12年)ので屋根・柱など外観を残して再度焼失。 再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。 再建中、(大正13年)にで本場所が行われたこともある。 震災復興後の昭和初期 第二次世界大戦中 [ ] (・)中の(昭和19年)、1月の初場所を最後として2月にに接収され、の工場として使用された。 このため5月(夏)場所は(番付には後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。 野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の(昭和7年)場所以来のことであった。 この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。 なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(以上。 以下は別日程で相撲場(現)にて開催)。 翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。 ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは(明治5年)以来72年ぶりであった。 (昭和20年)、によるの被害を受けてまたも焼失。 そのため同年5月23日からの本場所はで晴天7日間の開催予定だったが、旧によるの宮中喪やで延期され、同年6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。 の興行史上唯一の本場所非公開開催である。 大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月にで開催)。 改装は(昭和21年)完了。 改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。 晴天10日間と露天並みの興行だった。 占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4. 55m)から16尺(4. 8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。 改装後の(昭和21年)にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱引退披露が旧国技館での最後の興行となった。 以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。 ちなみに日本初の公開プロレスは(昭和26年)にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりのがリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。 また、の会場にも使用された。 国際スタジアム [ ] (昭和27年)の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでにの建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、に売却した。 国際スタジアムでは、リンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。 日本大学講堂 [ ] 国際スタジアムは旧国技館を6月にに譲渡し、「 日本大学講堂」(通称:日大講堂)となる。 日大講堂は、日大の行事よりも、や、など多くの興行イベントに使用されていた。 プロレスでは主にが東京でのビッグマッチに使用しており、12月には日本人で初めてを獲得したのとの初防衛戦が日大講堂で行われた。 ボクシングでは、が出場した世界タイトルマッチ、他にもとの世界戦が行われた。 (昭和43年)から(昭和44年)にかけて全国で起こった運動のなかで、の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。 (昭和51年)、大相撲からプロレスラーに転向したが、この日大講堂での全日本プロレスの興行においてが盛大に行われた。 (昭和57年)4月の改正により大規模施設にの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり 、翌(昭和58年)に解体された。 以降、日大の入学式・卒業式はで挙行されるようになった。 日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。 解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。 キーテナントは劇場(シアターカイ。 はの「エックス」ではなくの「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。 その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。 2代目新国技館 [ ] 2代目国技館の吊り屋根と土俵 (昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、()に建設された。 新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。 建設計画発表から3年の歳月で(昭和59年)11月30日に完成。 翌年1月9日、盛大に落成式が催され、との両によるが披露された。 その場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。 蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。 理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて 、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。 ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。 私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。 まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。 それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。 毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。 だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が…という思いがつのっていったんです」 と述べ、"両国帰還" の姿勢を鮮明にする。 春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。 ちょうどが赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。 (昭和55年)2月、春日野理事長、国鉄総裁、都知事、台東区長、墨田区長の五者会談が都庁で開かれ、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。 同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、(昭和58年)4月27日に着工した。 大相撲の、、などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて 、の決勝戦(、、を除く)に使用され、(平成3年)から毎年11月にの全国大会、(平成4年)からは毎年が開催されるほか、毎年2月にはが行なわれている。 では相撲競技の会場となった。 しかし、ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本はを主に使用するようになり、両国国技館はの会場として定着していく。 新日本の初使用は(当日のメインイベントは 対 戦)である。 だが、前年の優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。 またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。 しかし、にの登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際にを破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(に解除)。 なおの第1回G1 CLIMAX決勝戦においてが優勝した際、リング上にため以後、座布団の使用が禁止されている。 現在は年2回のビッグマッチに使用されている。 一方の全日本は体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「 プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。 全日本から分かれる形で旗揚げされたは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、限りで武道館から撤退したため、に初の両国大会を開催した。 この大会では力士出身であるの引退セレモニーも執り行われた。 に、(当日のメインイベントは 対 の試合)が女子格闘技として初進出。 女子プロレスでは全女の他、、LLPW(現:)がビッグマッチを開いていた。 のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、にが初進出。 にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。 にはインディー団体のも進出して「 両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(は武道館を使用したが、は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。 には同じくインディー団体のも進出(を売りにしている団体であるが、・・など、破片等が飛散するの使用は禁止)。 過去にはを拠点とするも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(建て替えのための代替。 現在は建て替え後のを使用)。 (解散)、(解散)も会場として使用したことがある。 には世界最大のプロレス団体の日本大会「 Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は(同年発生のによる及びの影響で12月にで開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催している。 は「WWE Presents WORLD TOUR 2012」、、には「WWE Live」が。 は「The Beast in the East」。 は「WWE Live Japan」が開催され、の開催も決定している。 から2015年までが、12月に「」開催し、以降はINOKI BOM-BA-YEをとして行われていた。 2015年11月15日には、の引退興業が催された。 ボクシングの試合 [ ] ボクシングでは、()が出場した世界戦(WBC世界タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。 2017年にはがここで世界王者となり、日本人初となる オリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。 また、世界戦のみならず主催ので、王者・() vs 挑戦者・()の 史上最大の日本タイトルマッチ、フライ級王者・() vs 挑戦者・()、スーパーライト級王者・() vs 挑戦者・()、王者・コウジ vs 挑戦者・(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。 では競技会場として使用される予定となっている。 その他の競技・大会 [ ] その他格闘技では、がに「 格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者に圧勝。 その後も主催のと、、、、などで開催実績がある。 他のスポーツ競技では、の新・両国国技館開場の年にチームが出場したの国際試合が開催されたことがある。 には東京大会の会場となった。 2018年10月にはプロ卓球リーグ:開幕戦の会場として使用された。 スポーツ以外のイベント [ ] 1985年12月31日には、民放同時放送『』(幹事局:)のメイン会場として使用された。 には、の主催により御在位60年記念式典を挙行した。 には『』、にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれも版)の全国大会が行われた。 同には『』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。 『』や『ソニック2』、『』等のゲーム大会や選手権が開かれたりや司会者に、ゲストに、、、、等が出演した。 やの新作ソフトの出品がラインナップされた。 という、のの性能技術を競うでは、の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。 蔵前国技館時代から主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年からに会場を移動して継続開催されている。 また、年に数回程度、・の会場として使われることがある。 ライヴ会場としてのこけら落としはに開催された、ロックバンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。 上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、秋にはアメリカのアイドル歌手のコンサートが催されたり、に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」 が開催され、、らが出演した。 2018年11月にはが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。 アニメ・ゲーム関係では、2007年にはがとしては初めて単独コンサートを行い、・には作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、・には『』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。 また、両国国技館傍に本社を置くや芸能プロダクション:のも当地で開催される。 は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、のからのにかけてが国技館初のカウントダウンコンサートを行い 、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。 には演芸コンテスト「」の会場としても使用されたほか、8月24日・25日には日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『』のメイン会場として使用された。 (8月24日)・(8月25日)の生放送でも使われた。 、ミュージシャンのがリーダーを務めるインストバンド、の解散ライブが開催された。 記録 [ ]• 旧国技館での最多優勝はの12回、新国技館では(現役)の16回。 旧国技館での最多連続優勝はと双葉山の5場所連続で、ともに地方場所のなかった年2場所制時代でのものである。 同じく年2場所時代に5連覇を達成しているは、国技館延焼事件の影響もあって仮設国技館での優勝を含み、両国国技館での5連覇は達成していない。 新国技館での連続優勝の最多はの7連覇、(昭和60年)の開館場所から(昭和62年)場所まで。 常設国技館での最多連覇記録でもある。 丸2年新国技館で他の力士は優勝出来なかった。 施設 [ ] 電光掲示板(2007年初場所)• に、その取組の決まり手が表示出来るようになっている。 電光掲示板の老朽化により(平成27年)場所を前に30年ぶりに新装され照明が節電効果のあるに変更された。 この他に、の表示がモノクロ液晶パネル式(表示)からLCD式(画面表示)に変更され、決まり手の文字も明朝体からに変更された。 また従来では表示できなかった珍手など全92種類が表示できるようになった。 吊り屋根はので建造されている。 2本ので上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。 総重量は屋根の裏に備え付けの照明機材を含めて6. 25トン。 やぐらと土俵は式の昇降型、は一部が可動型となっており、相撲以外のイベントにも対応出来るようになっている(やぐらは天井近くまで上がり、土俵は地下に沈む)。 地下にはの統括する工場があり、お土産用の焼き鳥を調理・製造している。 以前は相撲の興行中のみ稼動しており、従業員の大半は別に職があり、興行中はとして働いていた が、現在では、本場所の開催期間以外でも稼動しており、やなど、一部のJRの駅の販売店で販売されている。 焼鳥である理由は、材料であるが「二本足で立ち、手を着かない」ことから、相撲界で縁起物とされているため。 使用されているは岩手県産。 この験はでも担がれている。 大相撲興行中、枡席において伝統的に喫煙が認められていたが、第25条(防止規定)により、(平成17年)の1月場所から 全面禁煙となった。 1階には、地下1階には相撲診療所があり、博物館はやイベントなどの行われていないときには入館無料である。 また、診療所は力士・協会員の診療・定期を行うほか、一般の患者も受け付けている。 (平成15年)より本場所開催中はが運用される。 によるの放送を76. 6MHzで、放送を78. 3MHzで再送信する(両方ともテレビ中継の音声)。 オリジナルのを83. 4MHzで放送していたが、の千秋楽を最後に終了した。 (平成17年)5月場所より、館内で、を利用してに大相撲や国技館の情報を配信するサービスである「Sumo Live TV powered by 」を開始した。 屋根上の金色の部分の側面は、8分割で開閉可能である。 正面は西北西の方角を向いており、東方は北北東、西方は南南西、向正面は東南東と実際の方角とは一致していない。 原則として力士のエレベーター利用は禁止されており、エレベーター脇にはそのことを記した張り紙がしてある。 旧国技館は当時東洋一の規模の建物として称えられており、イルミネーションの美麗さには定評があった他、菊花大会や水害の避難場所としても活用された。 女人禁制問題 [ ] 相撲協会は国技館を時代は土俵の上にリングを組むや女子の大会、興業、イベントには当初は貸していたがにより貸さなくなっていた。 男子のものでも嬢などのはリングには上がらせないようにしていた。 両国国技館になって土俵は式の昇降型で土俵は地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。 しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。 リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。 の主催は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたがが同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。 については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。 この問題については主催の東京が2019年にを開設することによって解決を図っている。 2005年、のイベント『』のは国技館の土俵上で行われた。 出場者に女性ラッパーのがいた。 は脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。 以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。 (大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。 これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている。 日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。 女人禁制のためでも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位だったの国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。 しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。 これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。 交通の便 [ ]• ・:下車すぐ• 錦27(〜〜 両国駅)、両28(葛西橋〜錦糸町駅〜 両国駅):両国駅下車すぐ• 都営バス 門33(〜入口〜〜 都営両国駅〜〜〜〜〜豊海水産埠頭):都営両国駅下車徒歩5分• ・ スカイツリーシャトル東京線(〜 両国・江戸東京博物館〜東京スカイツリータウン):両国・江戸東京博物館下車徒歩5分 ギャラリー [ ]• 有限会社神奈川芸術協会. 2019年5月11日時点のよりアーカイブ。 2019年5月11日閲覧。 2020年6月1日時点のよりアーカイブ。 2020年6月1日閲覧。 日本相撲協会公式サイト. 2019年5月11日時点のよりアーカイブ。 2019年5月11日閲覧。 『大相撲ジャーナル』2017年6月号62頁• 『大相撲ジャーナル』2017年6月号65頁• 平成20年4月17日国立国会図書館• 高永・原田、317頁• 高永・原田、316頁• 日本語 HTML プレスリリース , 一般社団法人 Tリーグ, 2018年8月2日 , 2018年10月24日閲覧。 1986年3月15日. 2016年5月26日閲覧。 2007年11月20日, at the. 2018年9月28日閲覧。 Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2019年3月16日. 2019年3月16日閲覧。 2015年9月15日. 2016年5月26日閲覧。 2015年9月22日. 2016年5月26日閲覧。 大相撲ドットコム• 『国技館名物の焼き鳥が復活「消費で被災地応援できれば」』 平成23年。 ()により食材の入荷が滞り一時期販売が出来なかった• 協会の平成30年事業報告書によれば、平成30年の1年間の外来診療受診者数は7,049人であり、内訳は力士3,275人、力士以外の協会員2,175人、協会員家族170人、一般1,429人であった。 日本相撲協会• どすこいFM Twitter• 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p6• 朝日新聞デジタル 2019年3月7日. 2020年6月10日閲覧。 - AFPBB、2007年9月20日 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (日本語)• (日本語) - (国立国会図書館デジタルコレクション)• 2020年4月22日閲覧。

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国技 館 寿司

(25年)から(59年)にかけて存在した国技館については「」を、その他の国技館については「」をご覧ください。 6m 竣工 (昭和59年) 総工費 150億円 所在地 〒130-0015 1丁目3番28号 両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、日本の一丁目にあるの興行のための施設。 が所有している。 、などの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、のライブ会場としても使用される。 クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。 なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いるであり 、同協会による正式な呼称は「 国技館」である。 では、で 國技館と表記している。 旧国技館 [ ] (天保4年)からで相撲興行が催されていたことから、(明治42年)に 旧国技館は、同境内に建設された。 明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興業が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。 その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。 屋根は金堂を真似た。 約13,000人収容できた。 開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。 また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、 大鉄傘という愛称で呼ばれていた。 その後、がから旧国技館()を買収。 (昭和33年)から(昭和57年)までの間は、 日本大学講堂だった()。 回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。 沿革 [ ] 初代国技館 [ ] 初代国技館 先代は現在の国技館とは異なり、沿いのの境内にあった。 (明治39年)6月着工、3年後の(明治42年)5月に竣工し、に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは 小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。 しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。 6月場所は本来は5月18日より興業との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。 設計はや、の設計者として知られるとその教え子で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。 工事費用は27万円。 約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。 実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。 建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。 天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。 命名 [ ] こうして竣工した常設館の名称は、当初は設立委員会の委員長を務めるが提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。 ところが大の相撲好きだった作家のが開館式の式次第のために起草した披露文の中に「は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人・のはこれに甚く感じるところがあり、土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。 この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。 これを受けて6月1日付の『』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。 午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり、土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。 翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここにからへと変貌を遂げたのである。 なお命名が最後までずれ込んだため当初のなどにはまだ「両國元町常設館」とあったが、翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。 二度の再建 [ ] (大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。 損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。 使用不能の間は境内に仮小屋を建てて興行を行なった。 新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、(7年)7月に・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。 (大正9年)に再建興行したが、(大正12年)ので屋根・柱など外観を残して再度焼失。 再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。 再建中、(大正13年)にで本場所が行われたこともある。 震災復興後の昭和初期 第二次世界大戦中 [ ] (・)中の(昭和19年)、1月の初場所を最後として2月にに接収され、の工場として使用された。 このため5月(夏)場所は(番付には後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。 野外での晴天興行は関西本場所を含めた年4場所時代の(昭和7年)場所以来のことであった。 この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった(幕下以下は事前に国技館で開催した)。 なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(以上。 以下は別日程で相撲場(現)にて開催)。 翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。 ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは(明治5年)以来72年ぶりであった。 (昭和20年)、によるの被害を受けてまたも焼失。 そのため同年5月23日からの本場所はで晴天7日間の開催予定だったが、旧によるの宮中喪やで延期され、同年6月に国技館で傷痍軍人将兵の招待以外は非公開で行われた。 の興行史上唯一の本場所非公開開催である。 大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった(幕下以下は5月にで開催)。 改装は(昭和21年)完了。 改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。 晴天10日間と露天並みの興行だった。 占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4. 55m)から16尺(4. 8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。 改装後の(昭和21年)にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱引退披露が旧国技館での最後の興行となった。 以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。 ちなみに日本初の公開プロレスは(昭和26年)にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりのがリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。 また、の会場にも使用された。 国際スタジアム [ ] (昭和27年)の接収解除後、協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでにの建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、に売却した。 国際スタジアムでは、リンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。 日本大学講堂 [ ] 国際スタジアムは旧国技館を6月にに譲渡し、「 日本大学講堂」(通称:日大講堂)となる。 日大講堂は、日大の行事よりも、や、など多くの興行イベントに使用されていた。 プロレスでは主にが東京でのビッグマッチに使用しており、12月には日本人で初めてを獲得したのとの初防衛戦が日大講堂で行われた。 ボクシングでは、が出場した世界タイトルマッチ、他にもとの世界戦が行われた。 (昭和43年)から(昭和44年)にかけて全国で起こった運動のなかで、の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。 (昭和51年)、大相撲からプロレスラーに転向したが、この日大講堂での全日本プロレスの興行においてが盛大に行われた。 (昭和57年)4月の改正により大規模施設にの設置が義務付けられたことから、老朽化が激しくなっていた日大講堂は使用不能となり 、翌(昭和58年)に解体された。 以降、日大の入学式・卒業式はで挙行されるようになった。 日大講堂(旧国技館)は、幾度かの再建や改修を経つつも、1983年(昭和58年)に解体されるまで、国技館当時の「大鉄傘」の姿を堅持していた。 解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。 キーテナントは劇場(シアターカイ。 はの「エックス」ではなくの「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。 その中庭には、旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。 2代目新国技館 [ ] 2代目国技館の吊り屋根と土俵 (昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、()に建設された。 新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。 建設計画発表から3年の歳月で(昭和59年)11月30日に完成。 翌年1月9日、盛大に落成式が催され、との両によるが披露された。 その場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。 蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。 理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて 、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。 ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。 私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。 まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。 それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。 毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。 だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が…という思いがつのっていったんです」 と述べ、"両国帰還" の姿勢を鮮明にする。 春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。 ちょうどが赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。 (昭和55年)2月、春日野理事長、国鉄総裁、都知事、台東区長、墨田区長の五者会談が都庁で開かれ、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。 同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、(昭和58年)4月27日に着工した。 大相撲の、、などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて 、の決勝戦(、、を除く)に使用され、(平成3年)から毎年11月にの全国大会、(平成4年)からは毎年が開催されるほか、毎年2月にはが行なわれている。 では相撲競技の会場となった。 しかし、ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本はを主に使用するようになり、両国国技館はの会場として定着していく。 新日本の初使用は(当日のメインイベントは 対 戦)である。 だが、前年の優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。 またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。 しかし、にの登場に激怒したファンが暴動を起こし、その際にを破ったり、設備を破壊するなどしたため、日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(に解除)。 なおの第1回G1 CLIMAX決勝戦においてが優勝した際、リング上にため以後、座布団の使用が禁止されている。 現在は年2回のビッグマッチに使用されている。 一方の全日本は体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「 プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。 全日本から分かれる形で旗揚げされたは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、限りで武道館から撤退したため、に初の両国大会を開催した。 この大会では力士出身であるの引退セレモニーも執り行われた。 に、(当日のメインイベントは 対 の試合)が女子格闘技として初進出。 女子プロレスでは全女の他、、LLPW(現:)がビッグマッチを開いていた。 のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、にが初進出。 にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。 にはインディー団体のも進出して「 両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(は武道館を使用したが、は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。 には同じくインディー団体のも進出(を売りにしている団体であるが、・・など、破片等が飛散するの使用は禁止)。 過去にはを拠点とするも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(建て替えのための代替。 現在は建て替え後のを使用)。 (解散)、(解散)も会場として使用したことがある。 には世界最大のプロレス団体の日本大会「 Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」が開催され、これ以降は(同年発生のによる及びの影響で12月にで開催)を除いて毎年夏季(概ね7月から8月ごろ)に両国国技館大会を開催している。 は「WWE Presents WORLD TOUR 2012」、、には「WWE Live」が。 は「The Beast in the East」。 は「WWE Live Japan」が開催され、の開催も決定している。 から2015年までが、12月に「」開催し、以降はINOKI BOM-BA-YEをとして行われていた。 2015年11月15日には、の引退興業が催された。 ボクシングの試合 [ ] ボクシングでは、()が出場した世界戦(WBC世界タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。 2017年にはがここで世界王者となり、日本人初となる オリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。 また、世界戦のみならず主催ので、王者・() vs 挑戦者・()の 史上最大の日本タイトルマッチ、フライ級王者・() vs 挑戦者・()、スーパーライト級王者・() vs 挑戦者・()、王者・コウジ vs 挑戦者・(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。 では競技会場として使用される予定となっている。 その他の競技・大会 [ ] その他格闘技では、がに「 格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者に圧勝。 その後も主催のと、、、、などで開催実績がある。 他のスポーツ競技では、の新・両国国技館開場の年にチームが出場したの国際試合が開催されたことがある。 には東京大会の会場となった。 2018年10月にはプロ卓球リーグ:開幕戦の会場として使用された。 スポーツ以外のイベント [ ] 1985年12月31日には、民放同時放送『』(幹事局:)のメイン会場として使用された。 には、の主催により御在位60年記念式典を挙行した。 には『』、にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれも版)の全国大会が行われた。 同には『』の発売を記念して両国国技館初のビッグイベント『遊星Sega World』が開催された。 『』や『ソニック2』、『』等のゲーム大会や選手権が開かれたりや司会者に、ゲストに、、、、等が出演した。 やの新作ソフトの出品がラインナップされた。 という、のの性能技術を競うでは、の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後、毎年全国コンクールの会場として使われており、地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場、「高専生の甲子園」とまで言われている。 蔵前国技館時代から主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが、2017年からに会場を移動して継続開催されている。 また、年に数回程度、・の会場として使われることがある。 ライヴ会場としてのこけら落としはに開催された、ロックバンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。 上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、秋にはアメリカのアイドル歌手のコンサートが催されたり、に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」 が開催され、、らが出演した。 2018年11月にはが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。 アニメ・ゲーム関係では、2007年にはがとしては初めて単独コンサートを行い、・には作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い、・には『』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。 また、両国国技館傍に本社を置くや芸能プロダクション:のも当地で開催される。 は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、のからのにかけてが国技館初のカウントダウンコンサートを行い 、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。 には演芸コンテスト「」の会場としても使用されたほか、8月24日・25日には日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組『』のメイン会場として使用された。 (8月24日)・(8月25日)の生放送でも使われた。 、ミュージシャンのがリーダーを務めるインストバンド、の解散ライブが開催された。 記録 [ ]• 旧国技館での最多優勝はの12回、新国技館では(現役)の16回。 旧国技館での最多連続優勝はと双葉山の5場所連続で、ともに地方場所のなかった年2場所制時代でのものである。 同じく年2場所時代に5連覇を達成しているは、国技館延焼事件の影響もあって仮設国技館での優勝を含み、両国国技館での5連覇は達成していない。 新国技館での連続優勝の最多はの7連覇、(昭和60年)の開館場所から(昭和62年)場所まで。 常設国技館での最多連覇記録でもある。 丸2年新国技館で他の力士は優勝出来なかった。 施設 [ ] 電光掲示板(2007年初場所)• に、その取組の決まり手が表示出来るようになっている。 電光掲示板の老朽化により(平成27年)場所を前に30年ぶりに新装され照明が節電効果のあるに変更された。 この他に、の表示がモノクロ液晶パネル式(表示)からLCD式(画面表示)に変更され、決まり手の文字も明朝体からに変更された。 また従来では表示できなかった珍手など全92種類が表示できるようになった。 吊り屋根はので建造されている。 2本ので上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。 総重量は屋根の裏に備え付けの照明機材を含めて6. 25トン。 やぐらと土俵は式の昇降型、は一部が可動型となっており、相撲以外のイベントにも対応出来るようになっている(やぐらは天井近くまで上がり、土俵は地下に沈む)。 地下にはの統括する工場があり、お土産用の焼き鳥を調理・製造している。 以前は相撲の興行中のみ稼動しており、従業員の大半は別に職があり、興行中はとして働いていた が、現在では、本場所の開催期間以外でも稼動しており、やなど、一部のJRの駅の販売店で販売されている。 焼鳥である理由は、材料であるが「二本足で立ち、手を着かない」ことから、相撲界で縁起物とされているため。 使用されているは岩手県産。 この験はでも担がれている。 大相撲興行中、枡席において伝統的に喫煙が認められていたが、第25条(防止規定)により、(平成17年)の1月場所から 全面禁煙となった。 1階には、地下1階には相撲診療所があり、博物館はやイベントなどの行われていないときには入館無料である。 また、診療所は力士・協会員の診療・定期を行うほか、一般の患者も受け付けている。 (平成15年)より本場所開催中はが運用される。 によるの放送を76. 6MHzで、放送を78. 3MHzで再送信する(両方ともテレビ中継の音声)。 オリジナルのを83. 4MHzで放送していたが、の千秋楽を最後に終了した。 (平成17年)5月場所より、館内で、を利用してに大相撲や国技館の情報を配信するサービスである「Sumo Live TV powered by 」を開始した。 屋根上の金色の部分の側面は、8分割で開閉可能である。 正面は西北西の方角を向いており、東方は北北東、西方は南南西、向正面は東南東と実際の方角とは一致していない。 原則として力士のエレベーター利用は禁止されており、エレベーター脇にはそのことを記した張り紙がしてある。 旧国技館は当時東洋一の規模の建物として称えられており、イルミネーションの美麗さには定評があった他、菊花大会や水害の避難場所としても活用された。 女人禁制問題 [ ] 相撲協会は国技館を時代は土俵の上にリングを組むや女子の大会、興業、イベントには当初は貸していたがにより貸さなくなっていた。 男子のものでも嬢などのはリングには上がらせないようにしていた。 両国国技館になって土俵は式の昇降型で土俵は地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。 しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。 リングでの女人禁制は解禁されたものの、土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。 の主催は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたがが同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。 については、男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。 この問題については主催の東京が2019年にを開設することによって解決を図っている。 2005年、のイベント『』のは国技館の土俵上で行われた。 出場者に女性ラッパーのがいた。 は脱ぐことになったが土俵には上がることができ、準優勝を果たした。 以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。 (大相撲秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。 これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている。 日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。 女人禁制のためでも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが、2010年10月2日、最高位だったの国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。 しかし、美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。 これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。 交通の便 [ ]• ・:下車すぐ• 錦27(〜〜 両国駅)、両28(葛西橋〜錦糸町駅〜 両国駅):両国駅下車すぐ• 都営バス 門33(〜入口〜〜 都営両国駅〜〜〜〜〜豊海水産埠頭):都営両国駅下車徒歩5分• ・ スカイツリーシャトル東京線(〜 両国・江戸東京博物館〜東京スカイツリータウン):両国・江戸東京博物館下車徒歩5分 ギャラリー [ ]• 有限会社神奈川芸術協会. 2019年5月11日時点のよりアーカイブ。 2019年5月11日閲覧。 2020年6月1日時点のよりアーカイブ。 2020年6月1日閲覧。 日本相撲協会公式サイト. 2019年5月11日時点のよりアーカイブ。 2019年5月11日閲覧。 『大相撲ジャーナル』2017年6月号62頁• 『大相撲ジャーナル』2017年6月号65頁• 平成20年4月17日国立国会図書館• 高永・原田、317頁• 高永・原田、316頁• 日本語 HTML プレスリリース , 一般社団法人 Tリーグ, 2018年8月2日 , 2018年10月24日閲覧。 1986年3月15日. 2016年5月26日閲覧。 2007年11月20日, at the. 2018年9月28日閲覧。 Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2019年3月16日. 2019年3月16日閲覧。 2015年9月15日. 2016年5月26日閲覧。 2015年9月22日. 2016年5月26日閲覧。 大相撲ドットコム• 『国技館名物の焼き鳥が復活「消費で被災地応援できれば」』 平成23年。 ()により食材の入荷が滞り一時期販売が出来なかった• 協会の平成30年事業報告書によれば、平成30年の1年間の外来診療受診者数は7,049人であり、内訳は力士3,275人、力士以外の協会員2,175人、協会員家族170人、一般1,429人であった。 日本相撲協会• どすこいFM Twitter• 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p6• 朝日新聞デジタル 2019年3月7日. 2020年6月10日閲覧。 - AFPBB、2007年9月20日 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (日本語)• (日本語) - (国立国会図書館デジタルコレクション)• 2020年4月22日閲覧。

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